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  • 週末 151点の成形・加飾が終了
    今年の夏に東京銀座のギャラリーで発表する陶彫立方体151点の成形と彫り込み加飾が今日終わりました。それぞれの作品に日付をつけているので、今回は1月1日から5月31日までの作品になります。1年間365点の残りの作品は来年の夏に回します。陶彫は成形と彫り込み加飾が終わっても、それで完成というわけではなく、まず乾燥させて、その乾燥が進んだら仕上げと化粧掛けを施して窯に入れます。窯で焼成が無事に終了すれば、そこで漸く完成となります。そのために乾燥時間を確保しなければならず、また焼成時間もあるので、この時期に成形と彫り込み加飾が終了してちょうどよい制作工程になるのです。タイムリミットは6月4日の図録用写真撮影の日です。ここから逆算して成形と彫り込み加飾を今日終わらせたというわけです。もう一つは平面RECORDの制作で、この撮影も6月4日にしています。当初、陶彫立方体のアイデアとして、まず平面RECORDを作っていましたが、平面と立体の違いを実感し、媒体の違いがアイデアにも関係することに気づきました。平面表現の方が自由度があって、それをそのまま陶彫立方体にすると、焼成が困難になる場合があると考えました。陶彫は窯に入れることを念頭に入れて作っているので、陶土の厚みを均一にするだけではなく、穴開けの間隔も気にしています。ということは平面表現が先行することは陶彫立方体の成立には危険が伴うことになり、それなら陶彫立方体と平面RECORDを同時進行でやっていかざるを得ないと思ったのです。今日151点の成形・加飾が終了したので、平面RECORDも進みそうです。平面RECORDは陶彫のような制作工程がないため、夜の時間帯に多少無理をすれば完成させることも出来ます。平面表現の自由度はこんな時に便利だなぁと思っている次第です。
    週末 文化財を堪能した週
    週末になりました。今週の制作状況を振り返ります。新作である陶彫立方体の151点が最終的な段階を迎えているため、今週は朝から夕方まで工房に籠って精一杯陶彫制作に励んでいました。1週間のうち水曜日だけは工房を休んで、東京の美術館を回りました。制作三昧で疲れ気味だったので、美術館巡りは心のリフレッシュになりました。竹橋にある東京国立近代美術館で開催中の「重要文化財の秘密」展は、平日にも関わらず大変混雑していて、学芸員の企画が、多くの人々の興味関心を捉えた結果だろうと思いました。各地美術館収蔵品の中で一級品を借りるのが大変だったことは理解できます。それでもこれだけの重要文化財が同じ空間に並置されるのは、なかなか見応えがありました。全体的に見渡して雑駁に申し上げると、いずれの作品も美術の教科書に掲載されている作品ですが、それを取っ払って内容だけで見てみると、日本として長い歴史に培われた日本画や工芸の作品には、技巧的に蓄積された重みがあると感じました。油絵や彫塑は明治以降に西洋から伝来したものなので、本場には敵わないように思いました。日本人は生真面目な人種で、西洋画を一所懸命にまた真摯に学んでいますが、やはり新奇なものを精一杯取り入れた感覚があって、ヨーロッパの美術館で数々の西洋画を見てきた者の眼には、内容の希薄さを感じてしまいます。個々優れた作品であるのは間違いではありませんが、これはあくまでも私個人の感想と思ってください。恵比寿にある東京都写真美術館で見た写真家土門拳による古寺や仏像を撮影した写真は、西洋系の内容の希薄さがなく、幾星霜を耐えてきた美的価値が浮き彫りにされた重厚な感覚がありました。土門拳がテーマに古寺や仏像を取り上げたのは、私たち日本人に元々根付いている美意識を目覚めさせようと狙ったものかもしれず、そうであるならば、私は若い頃にまんまと土門拳の罠に落ちて仏像好きな者になったと思っています。ともかく今週は文化財を堪能しました。
    芸術の役割について
    今朝の朝日新聞「折々のことば」に掲載された記事で、今は亡き現代音楽家武満徹の一文が紹介されていました。「私たちはゆっくりとした歩調を保つしかない。」これに鷲田精一氏がコメントを寄せています。「文化は、時間の淀みに沈み込むばかりだと頽廃に陥るが、そこに孕まれた『夢の胚子』を性急に孵化させようとすると、畸形のものばかりが現れてはすぐに漂白される。そんな逆向きの頽廃にはまると、作曲家は文明の今を憂う。歩みは未来に向けながらも『現在』に深く脚を降ろしてゆくのが芸術の役割だと。文化人類学者・川田順造との往復書簡『音・ことば・人間』から。」文化が醸成していく過程には、芸術が重要な役割を担っていると文章が語っていますが、畸形なものを見分ける力も必要なのでしょう。最近これは何がしたいんだろうと思うような現代アートの氾濫を見ていて、自分が時流に乗り遅れているような錯覚を持つことが、私にはあります。現在の立ち位置にあらゆる解釈を施すアートの多様性に、些か消化不良気味な自分がいて、自分のリズムを乱されないように、耳を塞ぎ目を瞑ることも暫しあるのです。しかし、自分がやっている創作活動も畸形の一種かもしれず、何が文化として残っていくのか分からないと自己懐疑に陥る自分もいます。「ゆっくりとした歩調」とは歴史の取捨選択に創作の一端を任せることを意味しているのでしょうか。それでも今日の「折々のことば」は私にとって一種の清涼飲料のような感覚を与えてくれました。「夢の胚子」とは何と響きの良い言葉でしょうか。そんな言葉の投げかけで、私は何度も新鮮な気持ちを取り戻し、大袈裟に言えば命の蘇生が出来るのだと思っています。
    東京恵比寿の「古寺巡礼」展
    昨日、工房での作業を休んで東京国立近代美術館に行ってきましたが、その次に恵比寿に回り、東京都写真美術館で開催中の「古寺巡礼」展を見てきました。本展は30年以上前に亡くなった写真家土門拳による写真展で、土門拳がライフワークにした仏像や寺院を撮影したものです。私は学生時代に写真集によって「古寺巡礼」のシリーズを知り、私に仏像の美しさを開眼させてくれました。縄文土器は岡本太郎の論文によって、その美を認識したこととよく似ていて、仏像は土門拳の視点によって、仏像を宗教の対象ではなく美術的な眼で味わうことを教えていただいたのでした。とりわけ当時から私を捉えて離さなかった写真は、東大寺戒壇院の「多聞天立像」と「広目天立像」で、その迫力に圧倒されていました。室生寺弥勒堂の釈迦如来坐像の半面相を撮影した写真はあまりにも有名で、横顔の完璧な輪郭がずっと脳裏に焼きついています。しかも自然な在り様が何の衒いもなく、こちらに語りかけてくるようです。どうしたらこんなアングルを見つけられたのでしょうか。写真集「土門拳の古寺巡礼」(株式会社クレヴィス刊行)にこんな文章がありました。「仏像の良さを捉えようとする時、じーっと見ていると、胸をついてくるあるものがある。それを両手で抱えて、そのものを丸ごと端的に表わすことを心掛けることが必要だ。…造形物であるからといって、形に捉われては駄目だ。仏像の精神をまっとうに追求することが必要なのである。」そうした姿勢で撮影された釈迦如来坐像は、慈愛に満ちた相貌をしているのだろうと思います。対象物に撮影者の魂が乗り移ったとでも考えたらよいのでしょうか。仏像は私にとっては宗教ではなく彫刻です。鎌倉仏師が作った慶派の仏像は西洋彫刻に近く、それ以前の飛鳥、白鳳、天平時代の仏像は中国から伝来したばかりの東洋の静謐性を有していると私は感じています。その私の感じ方が写真によっても浮き彫りにされていることに、私は心地よさを覚えてしまうのです。
    東京竹橋の「重要文化財の秘密」展
    今日は工房での作業を休んで、東京の美術館巡りをしました。東京の竹橋にある東京国立近代美術館に、私は学生の頃からよく訪れていました。今回同館の70周年記念展が開催されていて感慨も一入でしたが、その記念展「重要文化財の秘密」展は平日にも関わらず、整理券を発行するほど大混雑をしていました。それもそのはず、明治以降の国が指定する重要文化財は68件に過ぎず、そのうち51点が紹介されるとあって、その人気ぶりが伺えました。各地の美術館所蔵の重要文化財は、嘗て1度は目にしたことのある作品でしたが、それがズラリと並んだ展示風景はなかなか圧巻で、作品が発する熱量を受けとめる私たち鑑賞者もそれに見合うパワーを持っていないといけない雰囲気がありました。本展覧会の題名になっている秘密とは何か、文化財保護制度が見直され、各作品がその指定をどのように受けてきたのか、その都度問題になってきたことも本展で解き明かされて、それを秘密と名づけた所以かなぁと私には思えました。図録によると「明治以降の美術が最初に指定されたのは1955(昭和30)年である。狩野芳崖《不動明王図》《悲母観音》、橋本雅邦《白雲紅樹》《龍虎図屏風》の4点だけだった。以来、今日に至るまでに重要文化財に指定された絵画・彫刻・工芸は68件に及ぶ。これらはいわば近代美術の名作中の名作といえるだろう。とはいえ近代美術の重要文化財指定は、それ以前の美術と比べて難しさがつきまとう。制作されてから日が浅く、歴史の篩に充分かけられているとはいいがたい。西洋からの影響と日本の伝統との間にあって評価軸が複雑にもなる。そしてまた近代美術というのは、その性質上、既存の価値観に疑問を投げかけ、新しい表現を切り拓こうとするものである。」(大谷省吾著)そうした気運は現代にあってもますます盛んで、今後は重要文化財という制度そのものの存在意義がどうなるのかという疑問も湧いてきます。今回の展覧会で私が個人的に興味を持ったのは、高村光雲《老猿》の近くに、荻原守衛《北條虎吉像》があり、伝統的木彫から西洋の彫塑へ歩み始めた過程が見えた時代でした。ただし、《老猿》は仏師的巧みさが彫刻的気迫に裏打ちされた秀作とも私には思えて、魂が猿の姿になったように感じました。重要文化財指定はロダンに学んだ荻原守衛の方が早かったようで、新しい表現の開拓に審査が呼応したのかもしれません。それでも私は《老猿》をじっくり見ているうちに、その熱情に打たれました。これが見られて私は満足しました。