Yutaka Aihara.com相原裕ウェブギャラリー

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  • 秋めいた10月を振り返る
    今日で10月が終わります。今日はハロウインで、韓国の繁華街で大きな事故がありました。東京渋谷はどうでしょうか。さて、今月を振り返って、陶彫制作や鑑賞のことなどを記してみたいと思います。今月は31日あって、そのうち27日間は工房で作業をやっていました。季節が秋めいてきたので、工房には朝から夕方までいることが多く、真夏の時期のように午前中だけで作業を打ち切ることがなかったと記憶しています。工房に行かなかった4日間のうち、窯入れをしていて、工房の照明等の電気が使えなかった日が一日ありました。温度確認に工房に行きましたが、作業は出来ませんでした。2日目は「柚木沙弥郎の100年」展(女子美アートミュージアム)に行きました。3日目は同じ女子美術大学で翌週に開催された芸術祭に、工房に出入りしている同大の学生を連れて行ってきました。4日目は実家に出来た集合住宅Raumの内覧会でした。この4日間以外は陶彫制作に明け暮れていました。現在作っている陶彫による新作は、なかなか手間がかかると考えていて、今までの旧作以上に時間がかかっています。これは平面のRECORD作品と連動しているため、RECORD作品の遅れも気になるところですが、それも含めて来年発表するのは陶彫作品とRECORD作品の両方なので、頑張り通さなければならないなぁと思っています。例年なら1年間分のRECORD作品の撮影もこの時期に予定していたのですが、今回に限って、この予定をずらしてもらいました。今月はそんなカメラマンとの打ち合わせもあって、今月はその先の見通しを考えた1ヶ月間を過ごしました。秋めいた季節は創作活動に最も適した季節なので、ここで頭を巡らせて、新作の明確なイメージを掴んでおくことが必要だろうと思っています。栃木県益子から送られてきた800kgの陶土を眺めていると勇気が湧きます。来月も精一杯頑張ろうと思います。
    週末 ハロウインについて考える
    週末になり、いつも通り工房で陶彫制作をやっていました。今日は美大生と美大受験生の2人が工房に来て、それぞれの課題に向き合っていました。昨日ソウルであったハロウインで集まった人たちの転倒事故が、工房のラジオから流れていました。日本でも渋谷には大勢の人たちが集まることがあり、隣国の事故を対岸の火事とは呼べないだろうと私は思いました。明日はハロウインです。渋谷ではコロナ禍前には仮装した人たちが群れをなして軽トラックを横倒しにした映像が流れました。その時は一体何が起こっているのか?と私は首を傾げていましたが、隣国でこんな大きな事故があったのなら、なおさら大騒ぎをすべきではないと常識的に考えます。そもそもハロウインとは何か、調べてみると古代アイルランドに住んでいたケルト人が起源と考えられている祭りであるようです。10月末は秋が終わり、冬の始まりを意味するところから、死者の霊が家族を訪ねてくると信じられていました。死者の魂は、幽霊や妖精、悪魔などの姿をしており、家に来た時に機嫌を損ねないように食べ物や飲み物を用意しておくのが伝統だそうです。つまり西洋の行事と言ってもキリスト教ではなく、ケルト人の民間伝承が礎になっているところを、カタチを変えて日本や韓国で流行ってきたのだろうと言えます。クリスマスもそうですが、日本や韓国に来ると何故かイベント化して、昨日のような大きな事故に繋がったと言えます。私は日本にも古来から伝承されている祭りがあるのに、どうして西洋の祭りを入れたがるのか、不思議でなりません。デザイン性が洒落ていると多くの人が思っているのでしょうか。少なくても家内はそう言っていました。日本人は洒落た文化を取り入れたがる、それをアレンジするのが伝統的に得意なんだと家内は主張しています。私がやっている彫刻も西洋文化の中枢をなすものです。それを日本特有の焼き物でアレンジしているので、ハロウインと変わらないと考えられます。成程、それもそうか。工房で陶土を触りながら、そんなことを考えた一日でした。
    週末 週の振り返り&「Raum」内覧
    週末になりました。今週も木曜日を除いて毎日工房で陶彫制作に精を出していました。最近は陶彫制作をやる上で、気温がちょうど良くなったので、朝からほぼ夕方まで作業を続けています。新作は今までで一番手間がかかる陶彫作品で、一日中精一杯やっても余裕が持てないのです。今後もさらに制作時間を多めに取ってやっていきたいと思います。木曜日は工房での制作を休んで、別の用事が入っていました。以前から亡き両親が暮らしていた実家を解体して、そこに集合住宅を建てているのです。その集合住宅がほぼ出来上がってきたので、建築会社から連絡を受けて、住宅の内覧をしてきました。私の代になって初めて建てた集合住宅で、外壁の色彩や名称などを私が決めていました。外壁は黒色にしました。住宅の名称はRaumにしました。Raumとは空間という意味のドイツ語です。8部屋あるうちの5部屋の契約が決まっているそうで、なかなか人気の住宅になっています。家内と一緒に回ってみて、自分自身もそこに住みたいと思ったくらいに居心地の良い間取りになっているので、建築会社の設計担当が頑張ってくれたのかなぁと思いました。建築に関しては勿論、銀行融資を受けているので、私たちは完全に不動産で食べていけるわけではありませんが、多少の家賃が私にも入るようで、教職を退職している私には助かる収入源です。稼ぎのない彫刻家には有難い話で、私は今もって両親の恩恵を受けている放蕩息子なのだと自覚しています。木曜日以外の話題として、火曜日の午後に地元の公立中学校に行って来ました。学校運営協議会が開催されたので、久しぶりに授業を見せてもらえる機会が与えられました。校長時代はよく授業を回って人事評価をやっていましたが、今はその重責もなく、ただ生徒の様子を眺めているだけでした。地元の中学校ではほとんどの生徒が真面目に取り組んでいるようで大変好感を持ちました。ただ、学校現場は何が起こるか分からないので、教職員は常に気配りをしているのでしょう。退職すると、現場のシンドさが伝わってくるように感じました。
    「金沢美術工芸専門学校」について
    「一期は夢よ 鴨居玲」(瀧悌三著 日動出版)の「金沢美術工芸専門学校」についてまとめます。まず石川県金沢という都市の特徴について書かれた箇所がありました。「8月6日に広島に原子爆弾が投じられ、これが降伏への決定的契機で、8月15日の終戦詔書放送となる。金沢は、こうして遂に、被爆せず、焼けてない都市として残った。古い工芸美術の地方有力都市金沢が無傷で残ったことは、不幸中の幸いであり、また、焼けた都市の再建復興と事情がまったく別で、そこに金沢の特殊性がある。つまり、焼けた都市と違い、実に素早く文化行動を取ることが出来たのである。」そんな世相を反映して美術学校設立が持ち上がりました。「校名は当初、『金沢美術専門学校』であったが、既に東京美術学校、京都絵画専門学校があり、それらと性格を異にしていることと、工芸に特色のある金沢の土地柄を反映させるべく、『工芸』の二文字を入れ、正式名称は、『金沢美術工芸専門学校』に落ち着いた。また、校舎は兼六園に隣接する金沢師団兵器庫の内部を改造して用い、外壁が赤煉瓦の建物、その敷地は一万六千坪である。」鴨居玲はこの学校に入学することになったのでした。「鴨居玲が画家を志望して金沢美専を受けるのを、父は反対せず、理解があったと伝えられるが、実際、その通りなのである。悠は、玲の画家志望を知ると、玲のために図る。早ければ昭和20年12月、遅くとも翌21年の2、3月、ともかく美専設立の動きが次第に具体化していく頃と思われる。悠は、金ボタン姿の玲を連れ、彦三町の宮本三郎の許を訪れて、倅を弟子にして欲しいと辞を低くして頼み、宮本三郎は承知する。~略~後年の玲の告白では、正規の本格的石膏デッサンをまじめに勉強したことがない由で、美術学生が教室で学ぶいわゆるアカデミックなデッサンは好まなかったとみられる。従って受験期もそういう訓練はしなかったのではないか。その代わり玲は自分の好む対象を繰り返し自分流にデッサンし、自分のデッサンを創る方だった。そういう才は宮本三郎も認めていたふしもあり、或いは宮本三郎はアカデミックな石膏デッサンなど余り意味が無いとでも言い、そんな玲のデッサンを推奨したのかも知れない。」鴨居玲が画家として第一歩を踏み出したことも書かれていました。「昭和23年は、しかし、玲にとって画家への道の始まりだった。宮本三郎が東京へ去った五月、金沢市公会堂で第四回石川県現代美術展が行われ、美専三年生の玲は、これに『観音像』を出品、県知事賞を受ける。公募展初出品、初入選、初受賞であった。」今回はここまでにします。
    新聞記事「土を愛でる…」について
    今日の朝日新聞の「折々のことば」で取り上げられていた記事に目が留まりました。「土を愛でるように、指を添える 土に対して、ほんの少しだけ、手を貸すというつくりかたです。(辻村史朗)『ざらざらの、のびない土/ねばねばで、すぐにへたる土/火に弱すぎる土/火に強すぎる土』。これを欠点とするのは土を制したいと思う人のほうで、それらはむしろ土の個性だと、奈良の山奥に住む陶芸作家はいう。技術などないほうがいいと。人育ても同じ。まずはその懐に『どぼんと』飛び込むこと?作品集『辻村史朗』から。」(鷲田清一著)陶芸家辻村史朗氏の作品は、技巧の見えない自然そのものの風合いがあって、その面白さが秀逸なのだと私は感じています。技巧が見えないと言っても技巧はきちんとあって、むしろ器を自然らしく見せられる陶の扱いが素晴らしいと思います。陶芸は、土との関わりに作家なりの工夫があり、土を生かす方法を素材との間合いをとることで、独自に編み出しているのだろうと思います。亡父が植木の手入れをしている時に、気になって常に手入れをしちゃいけない、暫し放っておいて葉が混むまでボンヤリ待つんだと言っていた事を思い出しました。庭の手入れに入った得意先で、そこの主人が植木のことを気にしすぎていたのを、それとなく注意したことを私が覚えていたのでした。誌面では人の育て方も同じと書いています。私が校長職にあった時も、周囲の教職員との間合いを考えていました。言い過ぎず、言わな過ぎず、その人に応じた寄り添い方を見つけ出そうとしていました。うまくいくかどうかは分からなかったのですが、現職の時は自分なりに考えていました。現在、私が作っている陶彫はどうでしょうか。陶芸ほど微妙な関わりはありませんが、やはり素材が土なので、それなりに丁寧に扱っているつもりです。ただ、ほんの少しだけ手を貸す細心な作り方はしていません。そこが西洋の彫刻としての考え方なのかもしれません。造形としての理屈が先行し、楚々とした造作がないとも言え、彫刻的構築性を主張するのみです。それは詩情というより哲学的な存在なのでしょうか。