Yutaka Aihara.com相原裕ウェブギャラリー

note

  • Tag cloud

  • Archives

  • 週末 砂マチエール施工開始
    週末になりました。今日は今週行なった新作の制作状況を書いていきます。今週は火曜日と金曜日、土曜日に砂マチエールの貼り付け作業を行いました。火曜日と金曜日は家内に手伝ってもらいました。そのおかげで「発掘~灰壁~」の直方体の両面になる大きめな長方形画面全体に砂マチエールを施し、現在は乾燥を待っている状態になっています。また「発掘~崩層~」の一層目になる土台に砂マチエールを施しました。今日の土曜日はよく工房に顔を出している美大生に施工を手伝ってもらいました。そのおかげで一層目は全体に砂マチエールを施すことが出来ました。「発掘~崩層~」は残り二層目と三層目に施工を控えていますが、三層目はまだ土台の加工が出来ていないので、砂マチエール施工は暫く休んで、土台の刳り貫き作業をやっていかなければなりません。明日からはまだ厚板材を加工する作業に戻ります。今週の月曜日と木曜日は土台加工をやっていたので、制作工程を行きつ戻りつして、毎日を過ごしていたのでした。水曜日は東京国立博物館に「空也上人と六波羅蜜寺」展に出かけてきました。内容としては、なかなか優れた展覧会で、久しぶりに鎌倉時代の仏像を見て、心が落ち着きました。毎日制作ばかりで、自分を追い詰めていくのは心身とも疲れてしまうので、展覧会に行って気分転換を図るのは必要なことだなぁと思いました。創作活動は気楽なものではありません。他者から楽そうな趣味に見えても自分自身にとっては、生涯を賭けるようなつもりでやっているのです。これは些か大袈裟な言い方ですが、命懸けの道楽とも言え、7月に予定されている個展に備えて自分としては精一杯やっています。個展も今年で17回目を迎えます。何回やっていても創作活動には慣れがありません。毎年新しい世界観を作っているからだと思います。この時期は準備期間としてピンと張り詰めた緊張感が漂います。慣れといえば、その緊張感を楽しめることくらいかなぁと思っています。
    美術品の運搬について
    今日の朝日新聞の「天声人語」に掲載された記事に目が留まりました。「薄く開いた口から6体の極小の仏様がニョロニョロと飛び出す。」これは何のことか、一昨日、私が見に行った東京国立博物館で展示されている空也上人像のことです。記事は貴重な仏像をどうやって運んだのか、おそらく相当苦心したであろう仏像の運搬について書かれていました。少々長くなりますが、引用いたします。「所蔵する京都・六波羅蜜寺からどう運んだのか。『ポキッとなったら大変。まずは外して運ぶ方法を探りました』。~略~しかし調べてみると、金属線が上人の舌に接着され、外しようがない。腹を決め、そのまま運ぶべく寺や博物館と打ち合わせを重ねた。工芸品輸送のために開発された『薄葉紙』が活躍した。指先で裂ける純白の紙で、筒やヒモ、ヘルメットまで自在に手作りできる。極小仏もこれでくるみ、像全体を特製の木箱で囲う。振動で折れないよう木材で支え、万全を期した。運ぶのも一苦労。温度と湿度を一定に保ったトラックで高速をひた走ること約370キロ。展示室で無事な姿を確かめられるまで気が休まらなかったそうだ。『万に一つの失敗も許されない。梱包を解く一瞬の緊張たるや…』。空也を鮮やかによみがえらせた仏師の腕前には舌を巻く。それから八百余年、梱包と輸送の職人たちの心意気にも感じ入った。」美術品の運搬には細心の注意が必要で、それは搬入だけではなく、搬出にも同じように神経を使うのです。日本屈指の貴重な仏像とは比べようもありませんが、私の彫刻作品も自作の木箱に入れて、東京銀座のギャラリーせいほうまで毎年運んでいます。実は作品の木箱をトラックに積み込む時や降ろす時に、私も心の奥ではヒヤヒヤしているのです。個展が開催できる喜びとともに、搬入や搬出の神経の消耗もあって、正直に言えば私はそこから逃げたくなることもあります。美術の展覧会がどんなものであれ、その準備に従事するスタッフの心意気がなければ、展覧会は成立しません。私の場合も専属の業者や若手スタッフに感謝しています。今日の新聞記事を読んで、私には思うところがあったのでNOTE(ブログ)に書かせていただきました。
    上野の「空也上人と六波羅蜜寺」展
    昨日は上野にある東京国立博物館で開催されている「空也上人と六波羅蜜寺」展に行ってきました。京都の六波羅蜜寺には幾度か訪れたことがあるので、私にとっては久しぶりにお馴染みの仏像との対面になりました。鎌倉時代の写実性に富む慶派の仏像に、若い頃から惹かれ続けてきた私には空也上人像は特別な仏像で、その口から漏れた言葉の一つ一つが阿弥陀如来の姿に変化している造形は、漫画のフキダシのようであり、斬新な特徴を有しています。また寺とは違い、360度どこからでも鑑賞できる博物館の展示は、とりわけ仏像の背面を見ることができて感慨一入でした。空也上人とはどんな人物だったのでしょうか。彼は平安時代中期に生きた僧侶で、庶民層の歎きに耳を傾けていた点で「市聖」と呼ばれていたようです。図録から生涯を記した箇所を引用いたします。「若い頃から、在俗の仏教信仰者として諸国をめぐって名山霊窟で修行をした。荒野に死体が捨てられていれば、一か所に積み上げて油を注いで焼き、南無阿弥陀仏をとなえて弔った。二十余歳になると、尾張(現在の愛知県)の国分寺で剃髪し、自ら空也を名乗った。播磨国(現在の兵庫県)峰相寺に籠っては数年をかけて一切経を閲覧し、阿波・土佐(現在の徳島県と高知県)の国境の湯島という観音菩薩の霊験で有名な島に詣でては、苦行の末に観音菩薩に見えたという。仏教の教えの届きにくい陸奥・出羽(現在の東北地方)にも教化に赴いた。天慶七年(938)、平安京に戻り、托鉢をして得るものがあれば貧しい人や病人に施したため、人びとは上人を『市聖』と呼んだ。また常日頃より休むことなく『南無阿弥陀仏』をとなえたので、人びとは上人を『阿弥陀聖』とも呼んだ。」また、運慶の四男であった康勝が作った空也上人像が、今なお優れた内容をもつ木彫になっていることに私は喜びを隠せません。「一千年以上前に民衆の幸せに生涯をささげた空也上人が、現代でもなおこれほどまでに人びとの記憶に刻まれているのは、仏師の卓越した描写力と、休みなく『南無阿弥陀仏』をとなえつづけたという上人の行状を巧みに造形化した創造性との絶妙なバランスをもつ本像の存在無しには考えられないだろう。~略~平安京における空也上人の最も大きな事業は、人びとの生活をおびやかす災異消除を願った大般若経の書写と十一面観音菩薩立像等の造像だった。この時に造られた十一面観音立像と四天王立像は、争乱の多かった平安京にあって、歴史の波をくぐりぬけながら奇跡的にも守り伝えられ、今もなお人びとの安寧と幸福を見守っている。」(引用は全て皿井舞著)
    気分転換のために博物館散策
    昨日から工房で新作の砂マチエール施工作業が始まりました。昨日は家内が手伝ってくれたので作業は思っていたより早く進みました。家内は現在邦楽器奏者ですが、大学では空間演出デザインを学んでいて、舞台美術制作も手がけたことがあるのです。実際の大道具作りも経験していて、こうした素材の扱いには慣れています。今後も砂マチエールの貼り付けは家内の時間がある時にやっていこうと思っています。新作の作業は先日より佳境を迎えていますが、今日は気分転換を図るために東京上野の国立博物館に家内と出かけていきました。運慶の息子庚勝が制作した「空也上人」像は京都の六波羅蜜寺にあって、私が教職にあった頃、修学旅行の生徒引率で度々京都を訪れ、六波羅蜜寺にはよく行っていました。阪神・淡路大震災の翌年にも六波羅蜜寺を訪れ、白壁に亀裂が入った状況も見ました。仏像が無事だったことを寺の関係者に聞いて、ホッと胸を撫でおろした記憶が甦ります。仏像は寺で拝観するのと、博物館で鑑賞するのでは同じ仏像とは思えない雰囲気が漂います。これは立体作品全般に言えることですが、作品が三次元空間に存在するため、そこでの空気や光陰によって見え方が変わるのです。今日出かけた「空也上人と六波羅蜜寺」展は、念のためネットで予約をしていました。ウィークディにも関わらず本展は混雑していて、「空也上人」像の周囲には多くの人が集まっていました。鎌倉時代に活躍した慶派の仏像に、私は一方ならぬ思い入れがあって、私に仏像の魅力を教えてくれたのは慶派の仏師たちなのです。20歳頃、私は平安時代の仏像が理解できずにいました。西洋彫刻を学んでいた私は、解剖学的な塊を有した運慶の仏像に彫刻の面白さを見取り、そこから快慶の静謐な世界を知り、それ故に数多の仏像を理解することが出来たのでした。「空也上人と六波羅蜜寺」展の詳しい感想は後日に回したいと思います。夕方上野から横浜に帰ってきて、横浜駅に隣接する画材店に立ち寄りました。新作に使う油絵の具の補充が必要だったためで、これを砂マチエールに滲み込ませるのです。溶剤はまだ工房に充分あると判断して、油絵の具だけ大量に購入しました。私の作品は陶土や焼成代金ばかりではなく、砂マチエールや油絵の具代金もかなりかかっていて、彫刻家と画家が並存しているようなものだなぁと思っています。絵の具材購入も含めて今日は気分転換のために楽しい一日を過ごせました。
    「理想と経営のはざまで」のまとめ②
    「ウィーン工房」(角田朋子著 彩流社)の「第四章 理想と経営のはざまで」の後半部分をまとめます。ウィーン工房は採算性向上のために製品領域の拡大と顧客好みのデザインの創作を取り入れ、所謂企業経営に舵を切ったようです。「1900年代後半のウィーン工房製品は、一挙に装飾性を増す。抑制的な幾何学的ユーゲントシュティールに代わり、動植物の図柄、抽象性文様、鮮やかな色彩を用いたデザインが増えた。また、主な製品領域であった木製家具や食器類に加え、アクセサリー、陶器、グラフィック製品、テキスタイルの生産が増加した。こうした新傾向は、モーザー脱退による新メンバーの躍進のみならず、1907年の経営危機を脱したウィーン工房の新たな経営戦略に起因した。」これはホフマンの考え方にも要因があったようです。「芸術責任者ホフマンがあらゆる創造性に寛容であり、クンストゲヴェルベシューレの生徒や若手芸術家を積極的に登用したことで、新たな世代の造形感覚の発露を導きウィーンの近代デザインに新局面をもたらしたことは事実である。」ウィーン工房はキャバレーの総合デザインも行ないました。「キャバレー・フレーダーマウスはウィーン工房初期の代表作品として、テーブルや食器等のインテリアやグラフィック作品のデザインが取り上げられることが多いが、~略~ウィーン工房の総合芸術志向から発展した実験的な劇場であった。~略~このキャバレーは、ウィーン・モデルネ特有の濃密な領域横断的交流の伝統を継承する文化サロンとして機能した。ここに集った美術・文学・音楽・舞台関係者の多様な顔ぶれから、設立の中心となったヴェルンドルファーとホフマンの幅広い人脈と芸術家同士の豊かな交際関係が浮かび上がる。」ここで私がウィーン滞在時代に影響を受けた小さな葉書群が登場してきました。「ココシュカも絵葉書シリーズに参加し、後の激しい表現主義の表現とは対照的な、初期の代表作『夢見る少年たち』に通じる穏やかな色調でクリスマスの題材やメルヘンチックな風景を描いている。」朴訥でも構成に独自性があったこのシリーズが私は大好きでした。「1907年がウィーンの活動史上、きわめて重要な転換点であったことが確認できる。デザイン画での華やかな装飾性への移行、事業面でのウィーン陶器社との提携、グラフィック生産の開始、市内での販売店開設といった相次ぐ展開は、会社の資金難克服のための経営戦略であったといえよう。」今回はここまでにします。