2021.12.31 Friday
2021年の大晦日を迎えました。今年も昨年に続いて新型コロナウイルス感染症に翻弄された1年になりました。その中で東京オリンピック・パラリンピックが夏に開催されて、スポーツ特有の筋書きのないドラマに感動を覚えました。その一方で感染者がピークに達し、今後はどうなっていくのか不安もありました。現在は変異株もあって予断を許さない状況ですが、日本は他国に比べると感染者が抑えられ、ここ数日は帰省ラッシュも見られるようになりました。感染予防をしながら経済を回していく取り組みはこのまま続けられるのか、先行きが見えない中で、私たちも頑張っていかなければならないのでしょう。さて、私事として今年を振り返ると、長年勤務してきた教職公務員を退職しました。最後の7年間は校長として難しい学校運営をしてきましたが、何とか無事に役目を果たせたのではないかと思います。4月から彫刻家一本になり、毎日工房に通う生活になりました。それまでの二足の草鞋生活が今となっては信じられないほど大変だったと振り返っていますが、その時はたいして辛くもなく夢中で取り組んでいました。環境の慣れというものは凄いものだなぁと思い返しています。その創作活動ばかりやっている生活も9ヶ月が過ぎました。考えてみれば若い時から、私はこういう生活を送りたかったわけで、やっと理想の生活になったと考えています。20歳の時に夢見た生活を45年かけて手に入れたわけですが、それでも自分は幸運だったと思っています。今年の夏の個展も16回目を迎えました。懐かしい高校時代の同級生でタレントとして活躍している友人が来てくれたことが印象的でした。個展を続けていなければこんな機会もなかったことでしょう。最後にホームページについて触れておきます。このホームページは私の創作活動の面から情報発信をしているもので、画像は陶彫作品とRECORD作品に限られています。カメラマンと相談しながら画像の構成をしていますが、今後はさらに充実させたいと考えています。NOTE(ブログ)は日々の記録ですが、日記というより展覧会や書籍等から得た知識、作品の進行具合など思いつくまま書いています。拙い文章を読んでくださっている方々に感謝申し上げます。来年もよろしくお願いいたします。皆さまにとって来年が良い年でありますようにお祈りしています。
2021.12.30 Thursday
明日が大晦日で今年1年間を振り返る機会にしています。毎年のことですが、31日にはホームページの年間総括を行なっているのです。そこで今日は今月の振り返りを行います。12月は26日間工房に通いました。来年夏に発表する新作の制作が主だった作業でしたが、今月はほとんど中規模作品の木材による加工に追われました。中規模作品は、嘗て発表した「発掘~赤壁~」に連なる作品で、直方体の土台の上に複数の陶彫部品が乗っています。陶彫部品は連結したカタチになっていて、私の従来の作品にある方法を採っています。木材加工の内容は、側面の文様を刳り貫く作業が中心で何日も費やしていました。刳り貫きだけではなく、文様によっては高低差をつけるために彫刻も施しました。そうして出来上がった木材を組み立てて、現在は工房の片隅に置いてあります。今後は木材に砂マチエールを貼りつけ、油絵の具を滲み込ませていきます。これは来年の仕事です。昨日から大規模作品の全体構成に取り掛かりましたが、不足している陶彫部品があり、今日から土練りをして追加分の陶彫部品を作り始めました。今月は小品「陶紋」6点も仕上げと化粧掛けを施して窯に入れました。彫刻家一本になったために例年より早く制作工程が進んでいます。美術鑑賞では「鈴木其一 夏秋渓流図屏風」展(根津美術館)、「河鍋暁斎 躍動する絵本」展(太田記念美術館)に行ってきました。映画鑑賞では「ファンタスティック・プラネット」(シネマジャック&ベティ)に行ってきました。鑑賞は充実していたように思います。RECORDは現在やや遅れ気味で、中途半端のまま年を越してしまいますが、来月には挽回したいと思っています。読書は日本人初の女流聖像画家の生涯を描いた小説を読み終えて、現在はドイツに興った革新的な造形教育機関であるバウハウスに関する書籍を読んでいます。今月は自家用車の定期点検と修理があって、運転免許証更新もしてきました。新年になっても今月の継続ですが、健康に留意してやっていきたいと思っています。
2021.12.29 Wednesday
30歳で海外から帰国して、私は横浜市の教職公務員になりました。社会人としては遅い出発でしたが、彫刻家としては生活が成り立たないので、教職に頼ったのでした。忽然と飛び込んだ教職の世界は思いのほか楽しくて夢中になったのが幸いでした。それでも彫刻の何たるかを掴みつつ帰国した私は、教職と並行して自らの造形思考を推し進めることにしたのでした。横浜市で採用をしていただいた教職は多忙を極めていて、自らの造形思考を深めるには時間が必要でした。まず教職と彫刻制作の効率的な切り替えが試練としてありました。教職に慣れない時期は彫刻のことなど頭に入ってくることはなく、担任した学級のことで精一杯でした。まとまった休暇が取れるのが年末年始の休庁期間だけでした。学校には夏休みがありますが、それは生徒のための休みであって、私たち教職員にとって夏休みは勤務を要する日なのです。年休を使って休みを取得する教職員がいますが、それは労働者の権利としてある休暇なのです。まともに連続して堂々と休めるのは休庁期間だけだと言えます。この貴重な時間を自分のために使えるのは幸せなことでした。その時から休庁期間と聞くと、私は俄かに意欲が湧いてきて、創作における大きな課題と向かいあうのが癖になっています。今年退職したにも関わらず、休庁期間という言葉に俄然やる気を出してしまうのが、私の長年の習慣かも知れず、今日は朝から工房に篭り、新作の大規模作品の全体構成を考えていました。どうやら陶彫部品が4点ほど足りず、明日以降は陶彫制作に戻ろうと決めました。このところ土台になる木材加工をやっていたので、土練りは久しぶりです。陶土は日々乾燥をするので待ったなしで作業をする必要があります。これにより大晦日や正月でも陶彫制作に従事しなければならなくなりました。大晦日や正月は一日中やっているつもりはないのですが、家のことは家内に任せきりになって申し訳ないと思っています。ただし、例年元旦に行っていた初詣は、新型コロナウイルス感染症の変異株の影響があって、数日間は見送ることにしました。
2021.12.28 Tuesday
「バウハウス-歴史と理念」(利光功著 株マイブックサービス)の「第二章 ヴァイマルのバウハウス その一 草創期」をまとめます。グロピウスがバウハウスで新たに招聘したのは画家ファイニンガー、彫刻家マルクス、美術教育家イッテンでした。「グロピウスはファイニンガーを狭量な絵のことしか頭にない画家とは考えていなかった。多くの戯画を描いていることからしても、時代の動きに敏感な幅広い造形家として尊敬していたし、比較的年輩ではあったが(当時48歳)バウハウスの思想に共鳴できる若い柔軟な精神の持ち主とみていた。」またイッテンにはこんなエピソードがありました。「ヴィーンにおいてイッテンは作曲家グスタフ・マーラーの未亡人で後にグロピウス夫人となったアルマ・マーラーと知り合い、アルマがイッテンの絵画とその美術教育法に関心を持っていたところから、彼を夫に引き合わせたのであった。」バウハウスには市民からの非難もあり、こんな攻撃も受けていました。「バウハウスは以前の美術大学の伝統を捨てさり、学生の生活態度はヴァイマルの誇れる伝統的生活様式を故意に軽蔑している、バウハウスは工芸に重点を置くことにより美術学校であるよりは一つの企業体にならんと努力している、バウハウスは表現主義的な偏向教育を行なっている、~略~」というもので、つまり「バウハウスの設立された当初からいわば保守と革新との間の軋轢が存在していたのであって、この対立は容易なことでは融和されるはずがなかった。なかでも旧美術大学の教師にとって大きな不満のもととなったのは、バウハウスが手工芸教育を主眼としていたことであったと思われる。」なかでもイッテンが実践した予備教育は独自なものでした。「イッテンの考えによれば、学生は工房で生産活動に従うのであるが、最初から実践的な技術や市場調査法を教えるべきでなく、まず想像的創造力を涵養し、斬新な造形をなしうる真に創造的な人間を育成することが、予備教育の基本的方針でなければならなかった。~略~イッテンの教育は、バウハウス本来の工芸教育を行なうための予備的な教育であったが、しかしさまざまな意味で初期のバウハウスの教育の中心的位置を占めた。これはひとえにイッテンが芸術教育者として卓越した才能を有していたことによるのである。」今回はここまでにします。
2021.12.27 Monday
「バウハウス-歴史と理念」(利光功著 株マイブックサービス)の「第一章 バウハウスへの道」をまとめます。バウハウスが設立される動機には、当時の芸術界の様子や時代背景がありました。「芸術はたがいに分離し専門化し、確かに自律性と純粋性は手に入れた。しかしこれは別の観点からするならば、芸術がその背景をなす現実から遊離し、生活の地盤を失い、孤立化し卑小化することを意味する。ここに芸術家たちの間に力強い大芸術を求めて再び諸芸術を統合しようとする希求が間歇的に現われる理由がある。」ドイツではドイツ工作連盟が結成されました。「この連盟は『芸術・工業・手工芸の協調により、当該問題に対する教育宣伝および態度表明を通じて、工業製品の向上』を目的とし、芸術家・工業家・手工芸家・販売業者を結集して、ドイツの工業製品の品質を高め、もって他国との生産競争を有利に展開することを意図していた。」イギリスのウィリアム・モリスは手工技術に固執していましたが、ドイツは異なる方向に向かうのでした。「彼(ヴァン・デ・ヴェルデ)はモリスと違って現代が技術の時代であることを肯定した。すなわち技術家の所産や工業的大量生産品も、芸術家の所産と同様に美しいことを認め、汽車・蒸気船・機械などの『この以前に知られていなかった美の特有の性質』を研究したのである。」ヴァン・デ・ヴェルデはヴァイマルに招聘されると私的教育機関を設立し「工芸ゼミナール」を創設しました。さらに新進建築家グロピウスが登場してきます。「グロピウスをヴァイマルに結びつけ、それまで関係のなかった教育の仕事に携わらしめるそもそもの機縁となったのは、ヴァン・デ・ヴェルデがグロピウスに宛てた一通の書翰であった。」そこで学校設立に誘われたグロピウスは、芸術教育案を考案しています。「学生は手仕事を習得した者か、一定期間工場で製図工として働いた者でなければならない。学生は工房から親方に委託された仕事、例えばある製品のデザインを持って学校に来る。学校のアトリエでそのデッサンを教師の指導の下に考案し、親方の工房に戻るのである。教師は工房や工場に出向いて親方と密接に連絡をとりながら、そのデッサンの完成を追う。技術的修練はあるが、製図の基礎のない学生は、製図のクラスに入って芸術的デザインの基本概念を学ぶ。また学校では実例を用いて理論的・歴史的講義を行う。このようなデザインの過程を通して技術的・商業的・芸術的疑問点を除去し、有機的形成の修業をするのである。」こうしてグロピウスを校長に据えたバウハウスは設立されたのでした。「すでにみたようにバウハウスは形式的には全く新たに創設されたのではなく、旧美術大学と旧工芸学校の合併によって成立したに過ぎない。しかしその名称といい、プログラムに盛られた理念といい、新設の学校といってよいほど新たな出発であって、古いアカデミーとは大きく断絶していた。しかし実際問題としてアカデミーの教師と生徒を引き継がなければならなかったし、それに敗戦後の現実は厳しかった。グロピウスの苦難の道が始るのである。」