2021.12.21 Tuesday
「白光」(朝井まかて著 文藝春秋)の「六章 ニコライ堂の鐘の音」の後半部分をまとめます。この章では時代の変遷が描かれます。「ニコライ大主教が永眠した明治四十五年、七月の暑い盛りに天皇が崩御した。」ここで明治から大正に時代が移ります。文脈は前後しますが、ロシアでも大きな事件がありました。「『今日は重大なことをご報告せねばなりません。本国の三月二日、日本の三月十五日、皇帝が退位されました』すでに流暢な日本語を話す主教だが言葉が途切れがちで、重苦しい。『では、ニコライ二世の跡を皇太子がお継ぎになったのですね』教役者の誰かが訊ねた。主教は静かに頭を振る。『皇太子はまだ幼くていらっしゃる。皇位は弟御のミハイル公に譲られたが、公はこれを拒否された。三百年続いたロマノフ王朝は滅亡されました』」その後ロシアは内戦状態になり、ソヴェート政権の樹立が宣言されたのでした。話は変わって本章では美術界の変遷にも触れられていました。「ロシアの人々もあの伊太利画に憧れ、親しんだ。だが、『西欧化された聖像画は世俗的芸術ではないか』という懐疑が知識層の間で広がり、伝統的なギリシャ画の復興が図られるようになる。ちょうど明治の日本でも同じようなことが起きた。お雇い外国人に盛んに洋画を学び、しかし反動のように日本美術の再評価が行なわれ、今度は洋画が排斥された。どこの国でも多文化の移入と受容には、よく似た沸騰と冷却が起きるらしい。」高齢になった山下りんにも異変が生じます。「『白内障だね。あなたの年齢だと珍しくない病だ。どうするね。手術もできるが、術後は眼鏡になるよ。ご家族とよく相談してみたまえ』医者はそこまでを言い、問診書を持ち上げて『独り身か』と呟いた。職業については看護婦に何も訊かれなかったので、空欄のままだ。『今のままでも、日常の暮らしにはさほど苦労はないだろうがね』そう、さほど苦労はないだろう。私が画師でなければ。」ついにりんは教会の諸事情により工房を明け渡すことになりました。「『ロシアから帰国したのが明治十六年でしたから、三十五年ほどになりましょうか。ニコライ師と出会って聖名イリナを授けていただいたのが明治十一年ですから、あの頃から指折り数えれば四十年お世話になりました』ニコライ師を喪い、やっと聖像画師として生きている実感を持てるようになれば眼が駄目だ。なんと儚い、頼りない我が身であることよ。」今回はここまでにします。
2021.12.20 Monday
「白光」(朝井まかて著 文藝春秋)の「六章 ニコライ堂の鐘の音」の前半部分をまとめます。この章では円熟期を迎えた聖像画家山下りんとその関わりのある方々や時代が移り変わっていく社会情勢のことが描かれています。いよいよ小説も終盤を迎えることになりました。「明治三十八年八月、亜米利加(アメリカ)のポーツマスという地で講和交渉が始まった。奉天での戦の後、日本の東郷艦隊はバルチック艦隊を撃破、ロシアの海軍力を失わせしめた。一方、日本側も陸軍の戦力が限界に達し、戦争はもはや継続困難となったらしい。日露両国は亜米利加のルーズヴェルト大統領の斡旋を受け容れることにしたのである。~略~戦勝の報に沸きに湧いた熱気はたちどころに冷え、政府批判の狼煙が上がった。政府はいったい、国民を何だと思っておるのか。戦費を出させる時は議会だとか何だとか騒いで金を出させておいて、肝要なる講和条件となると独断だ。そして、ろくでもない結果を国民に押しつける。戦費と兵卒を、誰が出したと思っている。」りんを取り巻く人々も大聖堂や神学校を中心に、さまざまな動向がありましたが、前半部分で大きなことはニコライ大主教の逝去でした。大主教は寿命を悟ってか、生前にりんの工房を訪ね、制作中の聖像画を見て感想を言っていました。これは小説ならではのことかもしれませんが、さもありなんと思わせるところが小説の巧みなところで、この場面には説得力がありました。「二月二十二日、葬儀が執り行われた。朝五時から大聖堂内の側堂で聖体礼儀が行なわれ、十一時に鐘楼の鐘が鳴った。すでに駿河台の周辺は人々が溢れ、その中から馬車が次々と現れる。各国の大使や政府、軍の高官たちだ。祈祷はセルギイ主教を司祷者として、朝鮮の掌院パウエル師、長司祭ブルガコフ師、そして三十二名の日本人司祭と五名の輔祭が加わった。祈祷は日本語で、ただし正教で用いるスラブ語でも連祷と呪文が唱えられた。」今回はここまでにします。
2021.12.19 Sunday
日曜日になりました。昨日まで続いていた中規模作品の板材刳り貫き作業が終わったため、今日は木材加工ではなく陶彫制作に戻りました。小品の6点が乾燥棚にあり、いい具合に乾燥が進んでいるので、6点全部に仕上げを行い、化粧掛けを施しました。仕上げはヤスリで指跡を消す作業で、これによって陶の質感が変わります。個展に来られた方が、作品を見てこれは金属で作られたのかとよく質問をしてきます。実は陶土を金属と見紛うように硬質に見せているのです。加えて錆色の化粧掛けを施しているので、鉄が錆びたような効果を齎せています。私の作品の特徴は、素材感を変容することによって得られる効果で、陶土や木材を別の素材に変えて楽しんでいるのです。小品の6点はひとつの窯に収まり、この焼成によって一応今回の窯入れが終了するはずですが、大規模作品の全体構成によっては、もう少し陶彫部品を増やさなければならないかもしれません。陶彫部品がやや足りない気がしているのです。大規模作品にも土台となる木材加工が必要で、板材刳り貫き作業はまだまだ続きます。今回窯入れした小品6点は「陶紋」シリーズとして来年の個展に出品する予定です。「陶紋」シリーズは通し番号で出品しています。今日は好天に恵まれた一日でしたが、寒くなり、ずっと大型ストーブを点けていました。いつもの高校生が平面構成をやりに工房に来ていました。美大に合格しても変わることなく真面目に課題に取り組んでいる彼女の姿は、私の刺激剤になっています。夕方、高校生を車で家の近くまで送り届けてきました。
2021.12.18 Saturday
新作について今週の制作状況を書きます。今週は東京原宿にある大田記念美術館に河鍋暁斎の展覧会に出かけたり、運転免許証の更新手続きがあったりして、毎日工房に通えない事情もありましたが、それでも制作を基本にした1週間を過ごしていました。このところずっと取り組んでいる中規模作品の土台を形成する両側面の板材刳り貫き作業ですが、今日漸く両側面とも完了しました。正直なところ刳り貫きにかなり手間がかかりました。毎日コツコツとやっていれば、いつかは完了するものだなぁと思っています。この後は刳り貫いていない文様の彫刻があるのですが、中規模作品の陶彫部品と木彫部品は今月末までに終わらせるつもりです。二足の草鞋生活を送っていた昨年のような時間との闘いがないため、作業の勢いは失われていますが、無理のない作業であるため、身体は楽で、これが自然な流れだろうと感じます。休憩時間も適宜取るようにしています。都心は雪も降らず、天気が荒れることはありませんが、日本各地では大雪に見舞われているところもあって、寒波も襲ってきているようです。横浜は幸い氷点下になることもなく、作業をするのには都合のよい気温になっています。一昨晩と昨晩は師匠の池田宗弘先生から立て続けに電話があり、先生のアトリエのある長野県はかなり冷え込んでいることが分かりました。先生の作品は真鍮を素材にしているため、通常は野外で制作をしているのですが、暫く野外には出られないのではないかと察しました。齢80歳になろうとする師匠の元気な声が聞こえて安心しました。室内で版画に取り組んでいると先生は言っていましたが、私も漸く創作活動一本になったと報告し、これからが自己表現の深みに入り込むことを師匠に宣言しました。明日も制作は継続です。
2021.12.17 Friday
「白光」(朝井まかて著 文藝春秋)の「五章 名も無き者は」の後半部分をまとめます。後半はニコライ堂の落成から日露戦争開戦までが描かれていて、聖像画家山下りんにとって周囲に気遣う日々だったのではないかと思います。「成堂落成した東京復活大聖堂はたちまち朝野の注目を集め、今日まで男性でおよそ千人、女性で二千人もの参拝があった。とくに今年は五月三日が復活大祭であったので、信徒の参祷も多かった。そこで祈祷時間以外でも当番を置き、便宜を図ることになった。実際には用心のためでもある。」そんな折、事件が勃発しました。「ニコライ皇太子とゲオルギオス親王は京都に滞在し、琵琶湖遊覧の日帰り観光に出かけた。日本政府の接待によるもので、有栖川宮威仁親王も同行していた。その道中、事もあろうに警護の者がサーベルで斬りつけたという。皇太子はこめかみを負傷した。一行はすぐさま京都の宿所である常盤ホテルまで引き返したらしい。皇太子が乗ってきた軍艦を含む七隻は、神戸港に投錨している。~略~主教の指図で、教会と信徒が用意していた奉呈品のすべてが司祭らによって神戸港へと運ばれた。蒔絵を施した聖像画の二点、『ハリストスの復活』と『至聖生神女進堂』も、軍艦の上で奉呈された。」りんの描いた聖像画はこうした運命を辿ったのでした。「しかし今は、『ロシアごとき、なにするものぞ』との風潮に変わってきている。契機は清国遼東半島に位置する旅順であるらしい。ロシアは太平洋への出口として、獅子口という古称を持つこの港を租借、極東に進出してきた。朝鮮を領土としたいのだ。だが日本はすでに朝鮮で多くの利権を持っている。大陸進出の足がかりとしても重要な拠点で、奪われるわけにはいかない。そこで着々と軍備を増強し、ロシアに対する敵意を高めている。」そこに兄重房が息子重幸に言っている会話をりんは聞いてしまいます。「『簡単なことじゃねえぞ。戦場に出るってことは』兄は戊辰戦争や西南の役を経験している。しかしりんや母には血腥い話をしたことがない。おそらく、妻や我が子に対しても同じであっただろう。それは兄の性の明るさゆえだと思ってきたが、ひょっとしたらそうではなかったのかもしれない。戦場ではきっと、生涯口にしたくない経験をするのだろう。」それでも重幸は軍人になったのでした。「甥がロシアとの戦で死んだとは、女教師らにも話せないでいる。皆、世間の敵意から生徒たちを守るので精一杯だ。あれほど東京の人々の憧憬を受けたニコライ堂は『敵国ロシア』の巣窟として憎悪され、信徒らは露探と白眼視されている。」りんは肩身の狭い思いをしていました。「三月三十日、兄、山下重房は息を引き取った。享年五十三だ。葬儀の後、りんは駿河台に帰っても絵筆を持たなかった。兄が坐した窓辺の椅子に何日も坐り続けた。しゃあんめえと苦笑しながら、『前へ進めよ』と背中を押してくれた人はもういない。」今回はここまでにします。