2022.01.25 Tuesday
「バウハウス-歴史と理念」(利光功著 株マイブックサービス)の「第七章 デッサウのバウハウス その三 ミース・ファン・デル・ローエの時代」をまとめます。新しい学長として就任したミース・ファン・デル・ローエとはどのような人物だったのでしょうか。「何といってもミースを有名にしたのは、1929年バルセロナで開催された万国博覧会におけるドイツ館の建築である。このパビリオンは流動的空間処理と材料(縞めのう、マッカサル国檀、大理石、ガラス等)の巧みな配合により近代建築の里程標と評価された。こうしてバウハウスの学長に招聘された時、ミースは建築家として最も充実した活動をしていた時であり、いわばその絶頂期にあったのである。」その後、クレーの辞任がありました。「工科大学的な性格が濃厚になるにつれ、絵画教室の位置は相対的に隅に追いやられた。この状態を予見していたパウル・クレーは、まだマイアー在任中の1930年夏、デュッセルドルフ美術学校の絵画教室より招聘の話があったとき、そちらの方が自由が得られると判断し、転任を決意した。~略~1920年以来十年余の間、クレーは生涯の最も実り多き期間を、バウハウスでの教育に注ぎ、それがバウハウスに与えた影響は計り知れないものがあった。」やがてナチスの時代に翻弄されるバウハウスの運命があり、閉鎖を余儀なくされていきます。「重大な理由はナチスがバウハウスを国際主義の根城、そしてユダヤ人の巣窟とみなしたことであった。バウハウスには教師にも学生にも外国人が比較的に多かったのは事実であり、彼らによって不偏不党の自由な雰囲気が保たれていたが、これがナチスの気に入らなかった。~略~いずれにせよ以上の極めて蓋然的な理由から、国家主義・反議会主義・反ユダヤ主義を標榜するナチスにより、バウハウスは目の敵にされたのであった。」バウハウス閉鎖に至る過程でミースが努力したこともありました。「市より給料が支払われ、バウハウスに所属する権利がすべて譲渡されるというこの案は、何といってもミースにとり有利な調停であって、これはひとえにヘッセ市長の尽力によるところ大であった。他の教師たちもそれぞれ当分従来通り市より給料が支払われることになり、市からの補助金八万マルクと校舎こそなくなったが、何とか私立の研究所として継続する最低の保証は確保された。」これよりバウハウスはその名称を維持してベルリンへ移転していきます。
2022.01.24 Monday
「バウハウス-歴史と理念」(利光功著 株マイブックサービス)の「第六章 デッサウのバウハウス その二 ハネス・マイアーの時代」をまとめます。グロピウスの後任として建築家ハネス・マイアーがバウハウス校長に着任します。「マイアーの職務は、言うまでもなくまずグロピウスの理念を継承し、バウハウスの健全な発展を計ることにあった。そして実際に彼は基本的にはグロピウスの精神とその築いた路線を受け継いでいったと言える。」その路線とはどのようなものだったのでしょうか。「もともとバウハウスは機能を軽視するどころか、むしろ基本的には機能主義の立場をとっていた。ところが機能的形態を追求するうちに、あらゆる装飾を排した単純で直線的な形態に到達し、そこで生産されるすべての製品がバウハウス様式と呼称される独特の印象的スタイルを獲得して、これが一つの流行を作り上げるまで世間に喧伝されていた。」マイアーは都市計画の建築に特化した教育体制を作りましたが、グラフィック・デザイン分野でも新しい動きがありました。「すなわち企業が宣伝のために行う展覧会や陳列展は、それまではいわばいい加減に行われていたのであるが、(ヨースト)シュミットは、展示パネルの大きさや配列、タイポグラフィや間仕切りにさまざまな工夫を凝らすことにより、これを新しいデザインの領域として確立したのであった。」室内装飾にも新しい動きがありました。「(アルフレート)アルントの時代の壁画工房の仕事として特記すべきは壁紙のデザインである。これは1929年から壁紙製造のラッシュ兄弟会社の勧誘と委託によって始められたのであるが、現代の住宅にふさわしい壁紙装飾を手軽に行う一手段として人気を呼んだ。」芸術性を排除したバウハウスでしたが、矛盾することもありました。「親方や学生の絵画制作はいわば余技とみなされていたのである。しかるに芸術趣味を認めぬ機能主義者マイアーが芸術教育を公認したのであって、これはマイアーにとって明らかに自己の信条に反する行為であったはずである。何故このような矛盾的行為が行われたのであろうか。恐らく自由な芸術創作を行いたいという学生の要求、さらには芸術教育の必要性を説くクレーやカンディンスキーの意向を取り入れたということであろう。」やがてマイアーの解任がありました。「確かにマイアーは特定の政党に属してはいなかったが、しかしマルクス主義者であることを公言していたし、バウハウスの共同作業の無名性に満足し、バウハウスをプロレタリア化することが時流にかなった改革とみなしていた。このような強い政治的関心の持主であったから、学生たちの政治運動にも寛大であった。」このような姿勢が市会で疎まれたのではないかと思います。
2022.01.23 Sunday
朝から工房に篭りました。今日は曇り空の一日で工房内は寒くて、作業の手を度々止めてストーブで温めていました。水を扱う陶彫は寒い日には厳しいなぁと思いつつ、今日も昨日に続いてRECORD立体版をやっていました。1体作るのに半日はかかり、今夏発表する大規模作品と並行して作るのは大変です。大規模作品の陶彫部品は既に終わっていて、乾燥を待っているところですが、そのうち1点に仕上げを施し、化粧掛けをして今日の夕方窯に入れました。明日は電気の関係で工房は使えないため、明日は大規模作品の土台になる厚板材を購入してこようと考えています。大規模作品は床を這う作品で、土台となる厚板材のデザインは重要な役割があります。作品の半分は厚板材による造形で決まると言っても過言ではありません。床を這うように設置する厚板材ですが、床から土台をすこし高めに上げて隙間を取ろうと思っています。今のところ厚板材は三層構造にしようかと思案しています。厚板材で作り出すデザインは不定形で三角形の穴をたくさん刳り貫き、穴だらけにするイメージがあります。床を這っていく先端は崩れかけていて、無限の広がりを感じさせられたら空間的には成功かなぁと思っています。果たしてイメージ通りになるかどうか、来週くらいから土台の設計をしていくつもりです。イメージは常に原初のイメージに戻って、そこから技巧を考えるようにしています。実は頭の中で幾度かイメージの更新をしてきましたが、原初の捉えはブレずにやっています。そこが作品の生命線だからです。今日は土台のイメージにはまだ手を使わず、頭の中で考えているだけでしたが、RECORD立体版を作りながら、頭は別の作品を考えている状態は、寒さばかりではなく精神的にも疲れが出てしまいました。今日も高校生がデッサンに来ていました。夕方彼女を家の近くまで車で送りながら、運転中もイメージトレーニングをしていました。
2022.01.22 Saturday
週末になりました。今日は今週の制作状況を書いていきます。今週は水曜日に美術館へ出かけたため、この日は工房に行かなかったのですが、その以外の日は工房に通っていました。新作の大規模作品の陶彫部品がほぼ出来上がり、土台となる木材加工を残すだけになりましたが、陶彫制作は継続しています。例年の制作工程なら、ここでひとまず陶彫制作は終わるのですが、来年に向けた制作が始まっていて、今年の夏に発表する作品と並行して、来年の夏に発表を予定している作品を同時に作っているのです。来年の陶彫作品は1月1日から12月31日まで毎日作っていかなくてはならないコンセプトでやっています。つまり一日1点ずつポストカード大の平面作品を作っているRECORDの立体版なのです。RECORD立体版は陶彫による立方体です。そこにさまざまな彫り込み加飾を施します。言うなれば私の小品シリーズ「陶紋」の延長上にあるものです。私には「焦らず休まず」という制作姿勢があり、それを具現化するための陶彫制作です。しかも平面作品のRECORDとの関連でやっている仕事なので、陶彫による日記または記録とも呼べるものです。実はこれがなかなか厳しい制作で、RECORD平面版のように1時間から2時間程度では終わらない作業量です。これを今年の夏までは新作と並行してやっていくとなると、今年の前半は結構大変なのではないかと思っています。今日は美大受験生が2人工房に来ていました。先週、美大の卒業制作展に行って刺激を受けたようで、今日は頑張ってデッサンをやっていました。私も卒業制作展では刺激を受けました。明日も継続です。
2022.01.21 Friday
「バウハウス-歴史と理念」(利光功著 株マイブックサービス)の「第五章 デッサウのバウハウス その一 造形大学へ」をまとめます。ヴァイマルからデッサウへ移転することになったバウハウス。「ここにグロピウスを始めとしてカンディンスキー、クレー、モホリ=ナギ、ムッフェ、シュレンマーらの親方が、ヴァイマルでの残務整理を済ませて次々に引っ越してきた。躊躇していたファイニンガーも授業を直接担当しない約束のもとに移ってきた。~略~グロピウスはヘッセ市長との協議の下に新しく定款を制定し、これがアンハルト邦内閣により承認され、1926年10月末バウハウスは造形大学として認可されたのであった。つまり市立の大学として、設備はデッサウ市に所属しながら、アンハルト邦政府教育局の監督下に置かれたのである。」新生バウハウスでは校舎や親方用住宅の建設が始まり、落成式を迎えました。「この日はバウハウス人にとり、なかんずくグロピウスにとり恐らく生涯における最良の日であったに違いない。理想的な活動と生活の場を創り得て、今までの長い悪戦苦闘の日々も一挙に雲散霧消する思いがしたことであろう。当日のベルリンの『フォシィシェ・ツァイトゥング』紙には美術批評家マックス・オズボンが『単にドイツのみならず全世界から、芸術に関心のある人士が、今後この友好的な都市デッサウへ、バウハウスの新しい建築群に示されている今日の芸術意志の感嘆すべきドキュメントを知るために、巡礼するであろう』という書き出しで、この校舎と教員住宅の建築につき詳細に報じていたが、この言葉は決して誇張ではなかった。」その活動を記した出版活動があります。「バウハウス叢書はグロピウスとモホリ=ナギの共同編集により、ミュンヒェンのアルベルト・ランゲン社から刊行されたが、その意図するところは、1927年のものと思われる案内パンフレットによるならば、あらゆる造形領域は相互に密接に連関しているという認識に基づき、芸術的・科学的・技術的諸問題を扱うことにより、専門分野に拘束された現代人に各種の造形領域で問題設定と研究法とその所産を闡明し、これによって個別的知識の比較の基準と他の分科における進展を作り出そうとするものであった。」軌道に乗ったバウハウスでしたが、やがてグロピウスの辞意表明がありました。「グロピウスが苦心惨憺して育ててきたバウハウスから突然去ることになった真因は何であったのであろうか。先の書翰にみる限りでは、建築家本来の仕事に専心したいという欲求と、バウハウスが一人立できるという判断から引退を決意したのであり、我々はこれをそのまま素直に受け取るべきかもしれない。しかしまさにそのような引退を望むに至った理由となると、そう簡単ではない。~略~恐らくドイツでバウハウスほど毛嫌いされ迫害された学校は見当たらないのであって、グロピウスみずから仕事の九割は対外的防衛線であったと言うのも、あながち誇張ではなかったと察せられ、彼がこのような時間の浪費と思われる仕事にふと嫌気がさしたとしても不思議はない。」