2022.01.30 Sunday
1月最後の週末になり、今日も相変わらず寒い工房で陶彫制作に励みました。今日も高校生がデッサンに来ていましたが、大型ストーブは彼女の傍に設えてあり、私の作業台からは離れています。そのため幾度もストーブの近くに行って手を温めていました。陶土を扱っていると手が荒れてくるため、私は朝晩クリームを手に塗っています。冬場の作業はなかなか大変で、これは陶彫制作に対するデメリットです。午前中はRECORD立体版をやっていて、午後は大規模作品の土台を考えています。夕方、大規模作品の陶彫部品を窯に入れたので、これが無事に焼成されれば、全体の大きさが分かり、土台の木材加工が現実味を帯びてきます。私は創作活動一本なので時間があると認識していますが、一日の仕事量が遅々として進まないのに時折イラついています。教職にあった時はもっと大変だったはずなのに、いつまでも余裕が持てない自分にちょっぴり不満も覚えます。確かに昔に比べれば休憩時間が長くなったかなぁと思いますが、恐らく週末の時間の使い方ものんびりしているのかもしれません。制作工程が着実に進んでいるのを確認すると、気分は楽になってきますが、あれこれ考えながら制作を進めているせいか、集中力は昔より足りなくなっているような気がしています。制作に集中して周囲が見えなくなることが最近はなくなりました。明日が今月最後の日なので、手帳を見ながら総括をしてみようと思います。
2022.01.29 Saturday
週末になりました。このところ週末になると今週1週間の制作状況を書いています。今週は大規模作品の土台のために板材を準備しました。土台のイメージからすると、まだ板材が足りませんが、とりあえずイメージが固まっているところから土台制作を着手しようかと思っています。大規模作品の陶彫部品に関しては、先週の日曜日に窯入れをしていて、今週水曜日に窯から出しました。さらに今日になって陶彫部品のもう1点に仕上げと化粧掛けを施して、明日の夕方に窯に入れようと思っています。大規模作品の陶彫部品は残すところ後2点の窯入れをすれば、陶彫部品は全て出揃うカタチになります。作業としては今夏発表する大規模作品が中心ですが、今月から始めているRECORD立体版もなかなか時間がかかっていて、私の中では存在感があります。RECORD立体版は一辺22cmの立方体で、その日その日によって彫り込む文様を変えています。今週の作業を見ていると、RECORD立体版だけで作業を終えている日もあって、かなり手間暇のかかる制作に多忙な日常を過ごしています。のんびりとした日常がないことは退職者にとっていいことかもしれません。通常のRECORD平面版にしても読書にしても、このNOTE(ブログ)も含めて時間が経つことを忘れてしまう充実感があり、週3回通っている水泳も漸く日常に組み込まれてきた感じがしています。今日は高校生2人が工房にやって来て、デッサンに励んでいました。新型コロナのオミクロン株の影響で、高校も短縮で授業を行っているらしく不自由な生活に慣れてきているのでしょうか。夕方、彼女たちを自宅近くまで車で送ってきました。明日も制作は継続です。
2022.01.28 Friday
自宅の書棚を眺めていると、既読したものかどうか分からなくなっている書籍が結構あります。私は大手書店でまとめて書籍を購入する癖があり、また複数冊を同時に読んだりするので、印象がまちまちになっているのです。ただ救いなのは、既読した書籍の気に入った箇所に、私は鉛筆で線を引く癖もあり、ホームページのNOTE(ブログ)を立ち上げた時に、その箇所を引用文として活用している場合があります。引用の線がなければ未読の書籍ということになり、今回手に取った「仮面ーそのパワーとメッセージ」(佐原真監修 勝又洋子編)は未読であろうと思っています。仮面関連で言えば「火の神・山の神」「豊饒の神・境の神」(2巻とも高見乾司著 海鳥社)、「呪術としてのデザイン」(中嶋斉著 彩流社)が書棚にあり、既読しています。これらの書籍は仮面を一部に掲載した民俗学的な論考が中心で、結構面白かった印象があります。九州の由布院で購入したと思われる「九州の民俗仮面」(高見乾司著 鉱脈社)は未読で、機会があれば読みたいと思っています。あと書棚で目につくのはアフリカの各種美術展で購入した図録の数々で、そこにも仮面が掲載されています。「仮面ーそのパワーとメッセージ」(佐原真監修 勝又洋子編)は、お面の考古学、現代の仮面、日本の先史仮面、中世の能面、韓国や中国のお面、世界各地の仮面にイタリアの仮面祝祭を特化して構成されています。その専門ごとに著者が変わるのがいいなぁと思っています。仮面は私の大好きなモノのひとつで、自ら収集もしていますが、私が集めるモノは骨董価値や民俗学的価値は関係なく、造形美術としての創作意欲が搔き立てられるモノに限られています。アフリカ系のモノが増えてしまうのは私の嗜好によるもので、コレクションの世界的な分布には向きません。素材や制作年代もまちまちで、文化的な背景ですら知る由もなく集めてきました。本書を読もうと思ったのはそんな文化的背景を多少なりとも理解しようと思ったからです。
2022.01.27 Thursday
「バウハウス-歴史と理念」(利光功著 株マイブックサービス)の「ニューバウハウス エピローグもうひとつ」をまとめます。「バウハウスは1933年ベルリンにおいてナチスの弾圧のもとに消滅した。しかしこの消滅は死滅を意味しなかった。バウハウスの理念は世界的規模で拡がるのだが、とりわけ米国には創立者グロピウスを始めとして多くのバウハウス人が移住し、さまざまなかたちでその理念が浸透し展開していった。~略~ニュー・バウハウス設立の準備をしたのは、シカゴの芸術・工業協会であった。」ニュー・バウハウスはモホリ=ナギを学長に据えて開校しました。米国ではどうだったのか、こんな文章がありました。「大部分の者がバウハウスについてよく知っており、すでに大学や美術学校での高等教育を修了した者が大半で、ある学生はニュー・バウハウスに大学院の積りで入ったという。すなわち米国でのいわば旧式の造形教育に飽き足りない連中が、新しい素材・方法・理論による教育を求めて、またヨーロッパの最新の芸術運動の担い手たちと接触できると期待して集まったのである。」ところがニュー・バウハウスも破綻の憂き目に会います。「スポンサーである美術・工業協会が財政難に陥ったため、わずか二学期間続いただけであっけなく閉鎖されてしまうのである。~略~この閉鎖はあやふやな財政的基盤の上に学校を発足させた協会の失敗であって、決してニュー・バウハウス自体の失敗と解されてはならない、どこか他の経済的援助をしてくれるところは無いだろうか、と公に訴えたのであった。」その後はデザイン学校として存続していたようでしたが、バウハウスの名称は使わないことにしたのでした。バウハウスの試みはさまざまな形で現在に受け継がれてると私は感じています。たとえば大学のデザイン科の分野において、その専攻の原型となったのがバウハウスだったように思います。私は美術の専門家になりたいと10代の頃に思っていて、社会貢献が出来るものは何だろうと考え、工業デザインの道を選びました。若いくせに我ながら立派な考えを持ったものですが、そのうち社会貢献などどうでもよくなって彫刻の道に迷い込みました。芸術性の制限が自分なりに厳しいと感じたために、自由な世界に身を投じたのでした。社会貢献は教職に就いて補いましたが、その後数十年間自分がやりたいことと生活のための経済活動を並行し、かなり歪んだ生活を送る破目になりました。私にとってバウハウスはいろいろな課題を提供してくれる刺激的な教育機関なのです。そんな思いがあったので滞欧中に原語による書籍を収集してきましたが、結局今回は日本語による分かり易い書籍を読んだ次第です。
2022.01.26 Wednesday
「バウハウス-歴史と理念」(利光功著 株マイブックサービス)の「ベルリンのバウハウス エピローグ 首都での閃光」をまとめます。この章は番号ではなくエピローグ(終章)になっています。「ベルリンへ大部分の教師と学生がデッサウから移ってきて、開校の準備に忙しく立ち働いた。電話器製造工場の内部を改造して十二教室を作り、デッサウのバウハウスから譲り受けた種々の器具備品類を運び込んだ。~略~こうして1932年10月25日、格別の儀式もなく、しかし希望に満ちてベルリンのバウハウスは冬学期の授業を開始した。」しかしこの希望も束の間で、ナチスによる弾圧が始まったのでした。「4月11日(1933年)、突如、バウハウスはベルリン警察とナチスの突撃隊に家宅捜索を受け、建物を封印されたのであった。強制捜索の表向きの理由はデッサウ検事局の指示による共産主義文書の押収ということであった。~略~ナチスは依然ベルリンのバウハウスもボルシェヴィズムの牙城とする見方を変えていなかったから、事実はそれらしきものが何も発見されなかったにも関らず、非合法文書を没収したとのデマを流して、封鎖を正当化しようとしたのである。」学長のミース・ファン・デル・ローエは教授会で財政困難を理由にバウハウスの解散を決定しました。それを学生にも知らせたのでした。こうして革新的な教育を推進しようとしたバウハウスは完全に閉鎖されました。バウハウスは歴史の記録から消されても、人々の記憶から消されることはなく、現在でもその理念が生きています。私が美大受験生だった頃にバウハウスの存在を知らされ、当時私は工業デザイナー希望だったために、この独特な教育方針を有する学校は、私の夢となり、また記憶に深く刻まれました。どうしてバウハウスの理念は生き残ったのでしょうか。「しかしこれによってバウハウスの理念そのものが消滅したわけではなかった。故郷へ帰った者によって、ドイツから追われてパリへ、ロンドンへ、新大陸へと亡命した者によって、むしろバウハウスの精神は世界的規模において展開継承されることになるのである。」本書にはもうひとつのエピローグがあり、その舞台はアメリカです。それはまた次回にいたします。