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  • 週末 中規模作品の陶彫完了
    週末になりました。今日工房に行って窯出しをして、中規模作品の陶彫部品が全部完了したことを確認しました。残る作業としては陶彫部品とコラボレーションする厚板材を加工するのが次の制作工程です。厚板材は先週購入し、工房の倉庫に置いてあります。陶彫部品が完了したことで正確な寸法が分かりました。陶彫は焼成によって大きさが収縮するので、焼成してみないと寸法が掴めないのです。厚板材の切断がそれによって変わってきます。漸くこれで木材加工をしていける条件が揃ったと思っています。今週は5日間工房での作業を行いました。中規模作品の窯入れ準備として陶彫部品の仕上げや化粧掛けをしていましたが、それより今週制作の中心となっていたのは小品の成形と彫り込み加飾でした。今日までのところ4点が乾燥を待っている状態です。もう少し小品の点数を増やしたいと思っていて、小品の目途が立ってから木材加工に取り掛かろうと思っています。今週は窯入れをしている時に一日工房での制作を休んで、家内と埼玉にある美術館を訪れて展覧会を見てきました。先週も葉山の美術館を訪れていますので、週1回の割合で鑑賞をしています。先週に引き継いで今週も制作と鑑賞が上手く噛み合っていて、自分は充実していると感じています。最近は新型コロナウイルス感染症が落ち着きを見せていて、経済活動を回していく風潮になっているので、美術館へも多くの人が来ています。そもそも美術鑑賞はソーシャルディスタンスが取り易いので問題は少ないのですが、少しでも安心感が持てるのが良いなぁと思っています。明日は工房に出入りしている若い世代の子たちを連れて平塚の美術館に行く予定です。私自身が彫刻家一本になって、制作工程に多少の余裕が持てるので、鑑賞を適宜スケジュールに入れていけるのです。
    「工部美術学校」のまとめ①
    「白光」(朝井まかて著 文藝春秋)の「二章 工部美術学校」の前半部分をまとめます。この章では聖像画家山下りんが、西洋画の技法を学び、またキリスト教の洗礼を受けるまでの経緯が描かれています。言わば日本で最初の聖像画家誕生に関わる重要な部分です。前半を学校での美術教育について、後半をキリスト教徒になるまでの行程をまとめます。「政府が殖産興業を担う工部省を設け、外国人教師を盛んに雇って官営工場の運営を始めたのは明治三年だという。~略~工部省は自前の人材を育成するべく工学寮に工学校を設立し、土木に機械、電信、造家、化学及熔鋳、鉱山の六学科を設けた。そこに新たに加えられたのが画術と家屋装飾術、彫像術だ。伊太利(イタリア)から専門家が教師として招聘され、絵画と彫刻の技術者養成を目指す工部美術学校として開校された。」この新設の学校に山下りんは合格しましたが、学費が払えずに入学は諦めていました。そこに旧笠間藩の藩主から支援の申し出があったのでした。「我が家中の妹にかような才を持つ者がおったかと、殿は大層感心されてな。今の日本は近代国家建設の真最中である。欧米文物の知識と生産技術を学んで移植するは、なによりの急務じゃと仰せであった。~略~殿が学費を援助してくださることに相成った。」さて、愈々りんはイタリア人教師ホンタネジーの指導を受けることになりました。「『自身が摑んだ世界をいかに表現するか。誰に似る必要もありません。独自の追求こそが大切です。そのためには、己自身の目でしかと観察することです』わからない。『世界を摑む』とはどういうことなのか。『誰にも似なくていい』とは、つまり師匠の画風を受け継ごうとしなくてよいということか。『独自の追求』なんぞ、まったくお手上げだ。さっぱり解せない。『目の前にあるものを、あるがままに描写するがよろしい。己なりに真に迫りなさい。西洋人はそのために、透視画法や明暗画法といった技を編み出してきました。わたしはこれらを順に、諸君に伝授していきます。』」また風景写生に外に出た時にはこんな助言もしています。「『初心の者は、ただひたすら写さねばならない。それは画術の基礎です。しかし素描の修練を積んだ者は、目の前の風景を自ずと改変することになります。写生画とは、名所古跡、風景にかかわらず、観る者の目を驚かせ、その地に遊ぶ思いを起こさしむるものです。~略~それは、描く者が心情を投影しているからです。思想や願い、喜怒哀楽が籠められた絵こそ、人の心を動かします。我々が百年前の絵と対話することができるのも、絵に心があるからです。」私は高校生の頃、受験準備にデッサンの基礎を学びました。まさに西洋美術のノウハウを身につけたことになるんだなぁと思いました。江戸時代の絵師の修練とはまるで違う考え方に、りんはさぞ面食らったことでしょう。
    「コマ割り絵画」について
    昨日、埼玉県立近代美術館とうらわ美術館の2館で同時開催している「大・タイガー立石展」に行って来ました。タイガー立石はひとつの表現領域に拘らず、表現が推移していく中で、コマ割り絵画という連作を数多く作っていました。これは4コマ漫画の発想で、同じ画面にコマ取りをして、同じ情景が展開していく様子を見せるものでした。昨日は埼玉県での開催2日目に当たる日でしたが、平日にも関わらず鑑賞者が多くいて、コマ割り絵画を巡ってはあれこれ喋っている人を何人も見かけました。複数人数で会場を訪れたら、思わず口に出して意見を求めたくなる絵画がコマ割り絵画でした。一点の絵画作品を見るとき、その情景には直前の場面が潜在しており、また直後の場面もきっとあるはずと画家は思ったのでしょうか。時間の経緯を一つの画面に敢えて説明的に持ち込んでいく発想はどこからきたのか、画家は絵画制作の後で、漫画を作り、またその発想を絵画に応用したのがコマ割り絵画だろうと察しがつきました。ただし、これは現代アートとしては決して新しい表現ではなく、寧ろモダニズムの潮流の中では本流を踏み外した行為ではないかと私は考えます。あるいは絵画鑑賞で内容に深く分け入ることを拒み、全体を表層的に眺めることに力点を置くことが、タイガー立石の求めた絵画鑑賞の在り方なのかもしれません。「観光芸術」と画家が言ったのは、コマ割り絵画だけではなく、あらゆる大衆的流行を画面にコラージュし、芸術行為を総体的に眺めることに骨身を砕いた結果なのだろうと思います。画家の身を削る行為が散見されるのは、その下書きが綿密に描かれていたり、きちんと制作工程が日記として記録されていたことでした。イタリアに渡ってデザイン事務所で働いていた時の、課題制作を実践する上での徹夜と記載されていた日記に、私に付き添ってきた家内はぐっとくるものを感じていました。タイガー立石は家内にとっては大学の同じ専攻科の先輩にあたる人で、大学時代に課題提出に何回も徹夜した思い出が甦ったようです。コマ割り絵画も大学で学んだ舞台美術の書割に似た要素を感じていて、家内は私とは違った視点で「大・タイガー立石展」を見ていました。
    北浦和&浦和の「大・タイガー立石展」
    昨日、工房の窯入れを行い、今日はそのため工房の電気が使えない一日になりました。それを理由に今日は家内と展覧会に行くことにしたのでした。マルチ・アーティストのタイガー立石の世界が、ちょっと前にテレビで取り上げられ、表現分野の多様さと数々の作品に興味関心が湧きました。展覧会場が2ヶ所あって、ひとつは北浦和にある埼玉県立近代美術館、もうひとつは浦和にあるうらわ美術館で、「大・タイガー立石展」と銘を打った個展が開催されていました。タイガー立石は本名を立石紘一といい、作品によっては立石大河亞と称しています。名前を幾つも持っていたのが彼の表現者としての生き方だったのかもしれません。今年は彼の生誕80年に当たる年ですが、1998年に56歳という若さで逝去しています。表現活動としては絵画、彫刻、漫画、絵本、イラストという分野を自在に飛び越えながら、不可思議な情景を描き、また社会風刺からナンセンスなものまで、そのアイデアは留まることを知らない活躍が見て取れました。27歳から40歳までイタリアに滞在し、彼の地のデザイン事務所に嘱託として働き、さまざまなアイデアを提供し、西欧でも認められる活躍がありましたが、1982年に帰国。日本でも旺盛な創作意欲は変わらず、陶による立体作品も手がけていました。図録よりこんな文章を引用させていただきます。「立石はその目まぐるしい活動領域の変化にもかかわらず、そうした変化を通じて獲得する領域のかたちはと言えば、思いのほか保守的で、絵画や立体、マンガや陶芸、絵本、あるいは掛け軸や巻物、といったふうに、分野ごとのかたちそのものを大胆に異化するということはない。そもそもが富士山や旭日旗、虎の絵、そしてモダンアートの巨匠といった大衆的で通俗性溢れる対象を好んで取り上げたのが立石なのだ。」(椹木野衣著)タイガー立石の作品群の中で、とりわけ私はマンガを模したコマ割り絵画に興味を覚えました。これについては別稿を起こしたいと思います。
    「篠田守男-Subconscious-」について
    今日、長野県安曇野にある碌山美術館から、同美術館で個展開催中の「篠田守男-Subconscious-」展で販売している作品集が届きました。美術館が遠方過ぎて個展には行けないので、美術館のネット販売を利用して注文をしたのでした。彫刻家篠田守男先生は、私の大学時代に教壇に立っていられましたが、私は人体塑造をやっていて、篠田先生は実材を扱うコースで指導をされていたため、自分とは縁がありませんでした。それでも南天子画廊の個展を見に行って、そこで先生の著作「快楽宣言」を購入し、彫刻作品だけはよくチェックしていました。作品集によると、私の3つ先輩の俳優六平直政さんとは師弟関係にあったらしく、彼の文章に当時先生がアトリエに使っていた小松製作所のことが書かれていました。私も一度そこにお邪魔したことがありましたが、先生は不在で、制作途中の作品をじっくり見させていただいたのが記憶に残っています。粘土で塑造をやっていた自分からすれば、先生が作る精密機械のような金属製の立体が、自分の作っている彫塑と同じ分野であるとは信じ難いものがありましたが、大学では池田宗弘先生が真鍮、保田春彦先生や若林奮先生が鉄という実材を扱っていたので、彫刻の表現の振り幅が大きいことには驚くに値しないとも思っていました。篠田先生の作品タイトルは「テンションとコンプレッション」という一貫したシリーズで、ワイヤーが支柱から張り巡らされ、金属部品の一部を宙吊りにしている構造をもっています。緊張ある張りで、物体を宙に浮かせ、同時に近未来的な空間を創出させる装置だろうと、私は勝手に考えていますが、この微細な構造を90歳を超えた今も、先生は作り続けているのでしょうか。作品集に掲載されていた美術評論家からの手紙を引用させていただきます。「まるでピアノの調教師のような細かい仕事の持続のなかで、あなたは自分にしか聴き取ることができない音色を感知して、微妙に調整している、そんな想像をしてみていたこともあります。作品の構造に浮遊感をもたらしているのは、何かーなどと、その方面に疎いわたしでも、あなたの作品のもつ”物理”には不思議な”魔性”を感じたものです。」(酒井忠康著)