2021.08.28 Saturday
週末になりました。週末だけは丸一日を工房で過ごす生活を送っています。そこで新作の制作状況を述べていきます。新作は大海に浮かぶ島々の風景をイメージしています。自然から得たイメージと言うより、日本伝統の石庭から発想を得ていますが、石庭が風景を象徴化しているように、私は陶彫部品を集めて「島」を作り出して、石庭よりもさらに象徴化を推し進めているようにも感じます。庭の境界はまだ漠然としていて、全体像が捉えられていません。「島」となる陶彫部品は、4点で構成するものは焼成まで終了しました。現在は8点で構成する陶彫部品をそれぞれ乾燥させて窯入れを待っている最中ですが、今日から3つ目となる「島」の制作に取り掛かりました。3つ目の「島」は上下2点で構成する「島」で、まず土台となる大きめな陶彫部品の成形や彫り込み加飾に時間を費やしました。今日から取り掛かった陶彫部品は今までで一番大きなものかもしれません。窯の容量いっぱいになる大きさで、それだけに手間がかかり、運搬にもパワーや気配りが必要になるだろうと思っています。陶土に掻出しヘラを入れていると、次第に集中力が増してきますが、汗が滴って作業台にポタポタ落ちてきます。シャツはビッショリになり、頭に巻いた手ぬぐいも汗で濡れています。今日は午前と午後でシャツと手ぬぐいを替えました。酷暑はいつまで続くのか、ひたすら耐えながら午後3時まで工房にいました。夕方自宅に帰ると、暫し身体が動きません。一昔前の制作方法では今後やっていけないかなぁと思いつつ、今は好きなことばかりやっているのだから、きっと大丈夫と自分に言い聞かせています。明日も続行です。
2021.08.27 Friday
「ピエロ・デッラ・フランチェスカ」(アンリ・フォション著 原章二訳 白水社)の「第3章 ピエロと時代環境」についてのまとめを行います。ピエロ・デッラ・フランチェスカが生きた時代はどんな時代だったのか、冒頭にこんな文章がありました。「ピエロにとって時代は障害であった。ピエロは絵画によって自分ひとりの世界を創造し、それを時代に対置したのである。」まず、図像的オブセッションの単元から引用します。「ピエロの人間像は同時代の人間像とまっこうから衝突する。一方には苦しみ悶え、熱を帯びた人間が存在し、他方にはピエロの描く、どっしりと身じろぎひとつせず、あふれる光と不動の時間のなかで、自己のフォルムと存在の明証性に満ち足りた人間がいるのである。」次に物語のオブセッションではピエロが登場する少し前の時代の様子が描かれていました。「苦悩の礼賛と演劇性に対する嗜好の行きつく先は、寓意と逸話の過剰生産である。イタリア美術、とりわけ中世末の美術に見られる異教風の図像表現は、そうした病ーこれを『物語のオブセッション』と呼ぼうと思うーに根本から冒されていた。」物語のオブセッションにピエロは異なる方向を持ち続けていたようです。最後にピトレスクなものへのオブセッションですが、ピトレスクとは付随的なもの、予期せぬもの、エピソードに属するものを過剰に描く流行で、ピエロのモニュメンタルな表現とは対岸にあるものでした。「ピエロはピトレスクな人間像にまったく関知せず、可憐なシルエットの代わりに一枚岩の柱のような人体を置いた。ピエロの自然観はまた、ピトレスクな自然観とは似ても似つかず、比べようもなく厳格かつ非情、重厚かつ乾燥していた。ピエロにとって、空間は規則的な形に還元できる堅固な物体の集合であった。空間は夢想の対象ではなく、精神の領域なのだ。」今日はここまでにします。
2021.08.26 Thursday
最近、テレビの地上波やそれ以外でも放映されていると必ず観てしまう番組があります。地上波では金曜日の深夜にやっているテレビ東京の「孤独のグルメ」です。スーツ姿の中年男性がひとり黙々と外食をとっている、それだけの内容で淡々としたドラマです。何故こんな山場がない番組をつい観てしまうのか、日本の社会環境が変化して、独身や一人で行動をとる人が増えてきた現象なのか、私はドラマのディテールに拘るスタッフの制作姿勢が、ちょっとした日常を取り戻したい人々の欲求に敵っているからではないかと思っています。私も妙な安心感を持ちながら、気楽に「孤独のグルメ」を観てしまうのです。今日の朝日新聞の記事に「孤独のグルメ」に関する記事があったので、NOTE(ブログ)で取り上げることにしました。作者の久住昌之氏の言葉を引用いたします。「『孤独のグルメ』は、僕が原作で、作画の谷口ジローさん(2017年に死去)と20年以上前に描いた漫画です。谷口さんは、1コマ描くのに1日がかり、というのが当たり前で、背景もすごく細かく描いてくれた。何でそんなにと聞いたら、『大きな見せ場も何もない、ひとりの男が食べるだけ。五郎の気持ちを伝えるのにはちゃんと描かないとだめなんだ』と言う。ドラマのスタッフも、その精神をよく理解してくれている。納豆をかき混ぜるのを、30秒撮り続けるのが『孤独のグルメ』なんです。」時代が求める番組の魅力はそんなところにあるのかもしれません。私が自らの生活で日常化している陶土との付き合いも毎日淡々としています。「孤独のアート」と呼ぶべきか、全体を捉えつつ次第にディテールに拘っていくのは、当番組の制作姿勢に繋がっているのではないかと思うところです。味覚も美意識も近いものを感じています。
2021.08.25 Wednesday
昨日、アイヌの木彫家「藤戸竹喜」展のことをNOTE(ブログ)に書いていたら、同じアイヌの木彫家砂澤ビッキのことを思い出しました。確か藤戸竹喜と砂澤ビッキが一緒に写っていた写真が展示されていたので、具象と抽象の世界こそ違えど、2人には相通じるものがあったのかもしれません。砂澤ビッキは神奈川県立近代美術館での個展で、私はその存在を知り、本人のことを調べてみたくなったのでした。作品集「四つの風」(北海道新聞社)は同美術館で手に入れ、書棚に仕舞いこんでいました。砂澤ビッキの作品を撮り続けて作品集にまとめたカメラマン夫妻がいて、彼らの文章が作家の生き様を物語っていました。「Ⅰ四つの風」の扉文から引用いたします。「札幌芸術の森野外美術館を代表する彫刻作品『四つの風』は、変貌し続けている。1986年、野外美術館のオープンに合わせて制作され、当初は四本だった。素材はアカエゾマツ。高さは5.4メートルある。耐水処置などは施されていない生の木だ。風雪や雨、陽光に晒され、キツツキが穴を開け、そこに小動物が棲みついたりもする。やがて朽ち果て、大地に還る。その変化をビッキは『風雪の鑿が加わる』と表現した。彫刻が変貌していくさまが作品となる。本来、立体を永く残すことを旨とする彫刻という芸術において、これは『革命』と言っても良いであろう。」(井上浩二著)作品集にはその他に「Ⅱ風を創る」、「Ⅲ夢を託す」、「Ⅳ筬島」、「Ⅴ最後の作品展」があり、自作した創作文章や童話、詩が掲載されていて、この逞しい木彫家が、一時期シュルレアリスムに影響を受けた形跡が見られます。確かに作品のモチーフには詩的な要素があり、それが砂澤ビッキワールドに不思議な膨らみを齎せているように感じます。彫り跡を残したままの造形とそれを取り巻く空気には自由で闊達な生命が宿っていると感じるのは私だけでしょうか。
2021.08.24 Tuesday
先日、東京駅丸の内にある東京ステーションギャラリーで開催されている「藤戸竹喜」展を見に行ってきました。副題に「木彫り熊の申し子」とある通り、木彫では超絶技巧を持った作家の長年にわたる作品の数々が展示されて、圧倒的な迫力と表現力に時の経つのを忘れました。北海道では熊の木彫が民芸品として売られていますが、藤戸ワールドを見て分かったことは、木材の生かし方、形態把握の凄み、生活の中にいる動物たちに対する深い愛情が滲み出ていたことで、それを確かな技能が支えていました。まさに写実的ではあるけれど実写ではない彫刻がそこにありました。久しぶりに心が揺さぶられる具象彫刻を見た気がしました。私は作家の背景がどうしても知りたくなって図録を購入しました。「熊は、カムイのなかでも最高位のキムンカムイだ。木彫り熊とは、カムイを彫ることにほかならず、カムイである熊のことを誰よりも知っているのは、アイヌである自分たちである。だから自分たちは、自分たちにしか彫れない熊を世に出すことができる。そういうプライドを熊彫りたちはもっていたのだ。『アイヌであればこそ熊を知り、アイヌだからこそ彫り上がりに何かがあるのだ』と言う父、竹夫の言葉そのままに、藤戸さんは、熊彫りたちの大いなる誇りを受け継いだのである。」(五十嵐聡美著)次に私の目が釘付けにされた彫刻は人物像でした。題名は「フクロウ祭り ヤイタンキエカシ像」で、アイヌ民族の儀礼のひとつである「フクロウ送り」を基にして彫られたほぼ原寸大の人物像でした。頭部から足まで一木作りで両腕は別々に彫られて胴体に取り付けられていました。その装飾はフクロウの冠を頭に被り、腕には大きな翼があり、衣装はアイヌ伝統の文様を浮き彫りしたもので、神々しい雰囲気に満ちていました。「樹霊観音像」も彫ったことのある木彫家なので、動物だけではなく人物にも魂を入れることができるのだろうと思いましたが、木と共に84年の生涯を全うした人に、改めて敬意を送りたいと思います。